2011年10月7日金曜日

雲南省長江上流域調査の旅 (その1)

今年(2011年)の9月中旬に二週間余り、学生二人を連れて、中国雲南省の揚子江上流域(金沙江と呼ばれる)に、調査に行って来た。今年から5年間の計画で始めた南京大学との共同研究のための調査である。揚子江の全支流域から水と河川懸濁物、河床堆積物を採取して、化学的、鉱物学的にそれらの特徴付けを行ない、支流別の砕屑物識別基準を確立して、それを揚子江河口沖合いで掘削予定の堆積物コア(過去6000年間に揚子江から流出した堆積物を連続的に記録する)に応用することにより、揚子江のどの支流域で雨が沢山降って砕屑物が流出したか、大規模な洪水が、どの支流域で、どういう頻度で起こったか、それらが時代と共にどう変動したのか、と言った事を明らかにするのが、その研究の主目的ある。
揚子江集水域は南中国の大部分を占め、現代の梅雨前線は集水域の中部~南部に停滞する。過去において夏季モンスーンの強度が変化して梅雨前線の停滞位置が変われば、揚子江の河口に供給される砕屑物の供給源も変化するだろう、という考えがその背景にある。実は、東アジア夏季モンスーンは、数百から数千年スケールで繰り返すグローバルな気候変動に連動して大きく変化して来たらしいことが明らかになりつつあるが、その様式や、グローバルな気候変動と連動する原因はまだ解明されていない。そこで、それらを世界に先駆けて明らかにしようというのがこの研究の最終目的である。
堅苦しい話はこの位にして、とにかく私は、学生二人を連れて、昆明へと旅立った。昆明の空港には、長年の友人であり、共同研究者でもある南京大のZheng Hongbo教授が迎えに来てくれ、南京大グループとすぐに合流した。今回、南京大からは、NikkiとConnieという博士課程1年の明朗で活動的な女子学生2名が参加した。一方、私のグループは、身長193cmとのっぽで痩せ型、気は優しいが引っ込み思案で慎重なKeita(M1)と、イガグリ頭で、背はやや低くガッチリとした体格、口数は少ないが言うべきことははっきり言う、独断即決型のYoshiaki(B4)である。二人とも無口で愛想がないので、NikkiとConnieは物足りなげであったが、兎に角、翌日、四輪駆動ワゴンと中型ワンボックスの2台で、最初の目的地Panzhihuaに向けて出発した。
今回の調査の主目的は、現在の揚子江における侵食、運搬、堆積過程の理解と各支流起源砕屑物粒子の特徴付けだが、数万年から数百万年前の揚子江がどう流れていたかを解明する事がもう一つの目的である。「実は、数百万年から数千万年前の揚子江の集水域は、現在の三峡より下流のみで、四川盆地より上流は紅河の集水域をなしてベトナムに流れていた。それが、東チベットの隆起に伴って、揚子江が次第にその集水域を西に広げ、紅河の集水域を奪っていった(河川争奪と呼ばれる)。」という仮説が、以前から複数の研究者により提唱されて来た。しかし、その根拠は必ずしも明確でなく、いつ、どこで、どの様にして河川争奪が起こったのかに関しても定説はない。そこで、調査の道すがら、揚子江やその支流沿いに見られる古い(時代は未詳である)河川堆積物や湖成堆積物についても、それらを観察、記載して、試料を採取した。
調査の初日は採水はせず、ウォーミングアップも兼ねて、Panzhihuaに行く道すがら、河床から50~60mの高さの段丘をなす古い堆積物を観察した(写真)。堆積物は主に泥岩からなり、平行葉理(地層面のmmスケールでの繰り返し。地層に垂直な断面で見ると、平行な縞模様に見える)が見られた。砂岩層は、細粒でごく薄いものを時々挟むのみである。これらは、湖堆積物の特徴であり、過去の一時期にPanzhihuaの周辺に湖が広がっていたことを示唆する。堆積物の固結度が余り高くない事、Panzhihua東部、揚子江上流から数えて一番目の支流であるYalongjiangとの合流点付近の河べり(河面から1m程度の位置)に同様の堆積物が露出している事から、それほど遠い過去のものでないでない(恐らく第四紀: およそ260万年前以降)と思われる。しかし一方で、調査初日に見た露頭では、地層は南北性の断層によって切られ、東に30度前後傾いていた事から、速めの傾動速度を考えても、~10万年よりは古いと思われる。厳密な測量は行っていないし、断層などに伴う地殻運動も評価出来ていないので、正確な事は言えないが、湖堆積物の厚さが100mを超える事は無いだろう。それほど規模の大きな湖ではなく、取りあえず第四紀における堰き止め湖の堆積物ではないかと考える事とした。(つづく) (多田)

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